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「決して忘れてはならない事実」
ライト兄弟は飛行機が世界中を結べば平和になると信じた。
なのに哀れな人類は、爆弾を搭載して人殺しを繰り返した。
1985年の夏、突然、JAL123便クルーがアンコントロールの信号を出してきた。
その日は何か日本も高熱にうなされている様に、すべてにあつかった。
夕方、永代橋を過ぎ深川の自宅そばにさしかかった頃、自動車電話がなった。
「どうも日航機が行方不明らしいぞ・・・・・。」
残骸の中から、白い手が一度だけ振られた。ピカッと、銀のリングが光る。人々は一目散に駆けだした。
1985年8月12日の日航機墜落事故から、実に23年の歳月が流れようとしている。ご遺族の方々にとっては、また悲しみの夏である。一方23年という歳月が、この事故を、私たちの記憶の中から少しずつ忘れさせているとしても、それは仕方のないことなのかもしれない。
23年前、私は「FOCUS」誌のカメラマンとして、事故現場にいち早く到着した。そして、その時撮影したモノクロ240カットのうち51カットを選んで、1991年に写真集としてまとめ出版した(『4/524』新潮社刊。日米同時発売)。
あの日、日航機に異常の事態が生じたかもしれないという第一報がNHKのニュースで流れたのは夜7時頃であっただろうか。その直後、「FOCUS」誌の多賀記者は、長野県南相木村の山荘にいた知人から「少し前に凄い音で飛行機が飛んで行った」という電話を受けた。T記者は前日まで、その山荘で久し振りの休暇を楽しんでいたのであった。私もそのあたりの地理には詳しかったので、T記者と二人でともかく現場(その時点ではまだ確定できなかったが)近くまで行くことになり、午後8時半頃に東京を出発、車で南相木村に向かった。ラジオからは日航123便の乗客名簿を読み上げるアナウンサーの淡々とした声が流れてくる。「これが報道なんだよなあ」。多賀記者がポツンとつぶやいた言葉が印象的だった。
南相木村に着いたのは夜中の11時半だった。すでに地元の消防団や警察が集まっていたが、いわば右往左往しているという状態であった。夜が明ける頃、20名余りの自衛隊員が到着、私たちは、ともかく彼らを追いかけて行くことにした。山に登るのだから、装備は軽い方がいいし、現場に近寄れるか、または全く近寄れないかのどちらかだと考えて、カメラはモータードライブを外した一眼レフを2台、レンズは20ミリと300ミリのみ。それから、機動性を考えて、28ミリを装着したライカも持って行くことにする。フィルムはわしづかみにしたトライXを7本。最後に小型ストロボをデイパックに投げこんだ。
私たちの足で自衛隊を追いかけるのは無理であった。とてもついては行けず、一緒に歩き出したテレビ局のクルーは早々に落伍、私たちもどこをどう行けばよいのか分からなくなり、ヘリコプターがホバリングしている方角に向かって、沢伝いに歩き続けたのであった。フィルムのケースで沢の水をすくって飲んだりもした。沢に近づくとふと足下に飛行機の機体らしき破片が散乱して、トランプのスペードのエースが落ちていた。不吉な予感がする。
10時頃、目の前がパッと開け、木漏れ陽のようにキラキラ光るものが見えた。近づくと、木の枝がからまりあって塊りのようになっているのが目に飛び込んできた。
「生存者がいるぞ」??。人の声がする。私たちは「違いまーす、プレスの者です」と、手を振りながら、彼らのほうに近づいて行った。救援隊の人々は、何をどうしたらよいのか分からないままに、茫然と山の中腹の丘に坐っている。私も彼らの近くに坐って、夢の島のような残骸を見ていた。しかし、白い手が振られ銀のリングがひかり、生存者がいることが分かってからの救援隊の行動は素早かった。近くの木々や飛行機のドアを利用して次々にタンカをつくっていく……。
スゲノ沢に僕らは一番乗りした、たまたま生存者を撮影する事が出来たが、目の前の過ぎ去る過去をフィルムに収めるので精一杯であった。最後に飛行機の死体である第2エンジンを見つけてフィルムがなくなるまで撮り続けた。
13時半に下山を進められ7時間ほど歩いて上野村に到着。記者は10円玉を入れながら編集部に電話をした。「なんとか撮影できました」と報告したようだ。