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Naonori Kohira has worked around the world on various projects, and his media producing work is an extension of his photojournalistic style. His eye for detail and keen perception allow him to capture the truly important moments of your day.
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フォトジャーナリスト
彼はメンフィスで生まれた アメリカンジャーニー 安西水丸・文 小平尚典・写真
原爆の軌跡

 『広島』

 広島に到着したのは、雨の多い十月の夕方、ちょうどラッシュアワーのピークだった 。家路を急ぐ通勤客のカサの流れをかきわけ、川をのぼるサケさながらに迷路のような 広島駅を抜けて、私たちはようやく広島駅前に出た。広島はかつて科学者たちが恐れた "核の砂漠"ではないと知っていたものの、あふれるばかりの人混みに私はあらためて 驚かされた。

 すでに暗くなりはじめていたにもかかわらず、私たちは市電白島線の満員電車に乗っ て原爆ドームへ向かった。雨粒のつたう窓ガラスから相生通りの人混みをながめている と、駅だけでなく広島の町全体が活発に動いていることがわかる。それに比べ、原爆ド ーム周辺は、ネオン輝く街の中心で薄暗がりの中に浮かぶ孤島のようだ。クスノキの下 には暗闇がよどみ、錬鉄のフェンスに掛かる雨ざらしの千羽鶴の前では、オイルランプ の炎が風になびいていた。その上には、投光照明灯に照らされた原爆ドームの姿が暗く 低い空に向かって浮かび上がっている。

 暗がりに目が慣れてくると、ほかにも誰かがいることを知って、私はびっくりした。 クレイジーなガイジンである私と、その友人で、ぼんやりと思いにふけるフォトジャー ナリストの小平。ほかに誰がこんな陰気な暗がりにいるのだろうか? よく見るとそれ は、この本当は美しいスポットで二人きりの時を過ごそうとしている、若いカップルだ ということがわかった。川べりに並ぶベンチはすべて、こうしたデート中のカップルに 占領されている。原爆による死体が元安川に積もっていたという記述を思い出して、私 は身震いした。美しくひっそりした場所ではあるが、ここで恋人を口説くのは、真夜中 の墓場でピクニックをするようなものに思えたのだ。暗い川面をながめる恋人たちは、 彼らを見つめ返す原爆の霊の顔を見るのではないか? 思わず私は、カップルのひと組 に近づいて質問をしようとした。だが、言葉が見つからない。質問をのみ込んだまま私 は引き返し、小平に合流すると、暗がりからネオンのまたたく紙屋町のざわめきへと戻 ったのだった。

 広島はいくつもの対照的な面をもった街だが、この恋人たちと死者の対比は、私が出 会った最初のものだった。二番目の出会いは、翌朝の平和記念資料館だ。ここは亡くな った人たちへの追悼の場であるとともに、いまだに理解しない世界の人たちへの教訓と なる実例でもある。死者の統計的数字や原爆の被害を表わすいささか凝りすぎのジオラ マ(立体模型)を見ても冷静だった私は、亡くなった人たちの様子を伝える被爆資料に 大きく心を動かされた。愛する息子の使っていた、錆びた三輪車。原爆というカメラの フラッシュでみかげ石の階段に焼き付けられた、人間の影。壊れた眼鏡。この日常的な 物たちのあいだを縫って、あのトリニティの風のささやき声が聞こえてきた。「傲慢な 者たちが恐ろしい知恵を軽率にふりまわした結果。それがこれなのさ」

 爆弾の本当の姿は、冷たい数字によってではなく、個々の人間の悲劇によって、あら わにされる。無数の人が死んだ広島というだけでは、理解しにくい抽象概念でしかない 。亡くした息子のお気に入りの三輪車を埋める父親の広島。それこそ、私たちみんなが 存在する広島なのだ。この半年前、私はワシントンのスミソニアン航空宇宙博物館にあ る"エノラ・ゲイ"の展示を訪れたが、そこに広島の被爆資料を展示することに対し、 アメリカの退役軍人協会と空軍協会は頑なに反対した。それがなぜなのか、私はいま理 解することができた。原爆の熱で溶けた弁当箱ひとつが、どんなにタフな戦士の心をも 和らげ、自分たちのつくった歴史を再考しようとしない退役軍人の確信に疑問を抱かせ るに十分な力を、もっているからである。

 一方、平和記念公園は、また別の種類の相反する面をもっていた。冷戦の暗黒時代に つくられたこの公園は、死者を追悼する場所というより、むしろ核戦争の残酷さのシン ボルとしての存在だ。一九六〇年代の現代建築は、皮肉なことに、あの時代がむしろい まより単純で安全だったことを語っている。当時はまだ"核大国クラブ"が小さく、核 兵器は脅威であっても、コントロールのきく政治的な兵器だったからだ。公園のモニュ メントは、一般市民にアピールするだけでなく、ともすればふたたび核のボタンを押そ うとするような愚かな政治家たちをも考慮したものだった。時を経たいま、それは成功 の記念碑でもある。なぜなら、この五十何年間かに行なわれたあらゆる地政学的愚行を 見ても、核爆弾を落とすという行為だけは、長崎以降なかったからである。この平和記 念公園をつくった人たちは、自分たちのメッセージが社会の決定に少なからず影響を与 え、政治家の行動を抑制する助けになったことを知れば、満足感を得ることだろう。

 その後冷戦は終結し、二極的な恐怖のバランスが崩れた結果、はるかに予測のつかな い多極的な世界ができあがった。いくつかの国が核を独占していた状況は、世界的な核 マーケットというかたちに変わり、最高機密の研究所から極秘の知識が漏れだしている 。かつてソビエトを構成していた共和国にストックされていた核分裂物質は、国境を越 えて消え始めている。核爆弾を持ちたいと望んだ国は、これまでにないほどかんたんな 努力で、それを実現することができるのだ。テロリストにしても、サリン・ガスなどの 化学兵器でなく持ち運びのできる小型太陽に移行する日が、遠からずやってくることだ ろう。そうした予想をするとき、人は映画『博士の異常な愛情』【割注:冷戦下の偶発 的核戦争を戯画化したブラックコメディ】の無邪気な時代をノスタルジックに感じるこ とだろう。最終戦争へのボタンに乗っている指が、せいぜい五、六本しかなかったころ のことだ。

 緑の葉の茂る静かな平和記念公園をぶらついていると、昔からの疑問が頭によみがえ ってきた。その後次々に出現した新たな恐怖に満ち満ちているこの世界で、広島の爆撃 だけが特に鮮烈に記憶されているのは、なぜなのだろう? そこには何か、特別な理由 があるのだろうか? その問題は禅問答のように私の頭を悩ませてきた。当然のことな がら、死者の数ではない。広島の犠牲者の数も、東京大空襲の死者に比べたら少ないは ずだ。放射能の残酷さという要素は、たしかに答の一部ではある。オッペンハイマーは 広島の死者数を二万人程度にしか見積もっていなかったし、ロスアラモスの人間は誰も 放射線による傷病者を予測せず、放射線の影響は火球【ルビ:ファイアボール】【割注 :核爆発で生ずる中心の光輝部】による致死エリア以上には広がらないという、誤った 結論を出していた。言い換えるなら、放射線でゆっくりと残酷な死を迎えるはずの人た ちも、最初の爆風と熱ですべて蒸発したり灰になったりしてしまうものと、彼らは考え ていたのだ。

 

 
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